2013/08/17

美しい夢(欠けたもの) 映画『風立ちぬ』







 ここにあるのは美しい夢である。それ以上でも、それ以下でもない。勿論アニメとしては申し分ない出来である。だがそれだけだ。
 飛行機の設計士を夢見、それを実現させた主人公。結核のヒロイン。彼女は、主人公と暮らすために、サナトリウムでの結核治療を中断し、山を降りる。だが、死期が近づくと主人公の前から姿を消す。彼女の死の場面は描かれない。彼女は自分の美しい部分しか主人公に見て欲しくなかったのだという。このエピソードはこの映画全体を象徴するものだ。
 そして主人公が作るのはただの飛行機ではない。戦闘機である。だがそれが人を殺す場面は描かれない。主人公はただ美しい飛行機が作りたいだけだという。それはそうだろう。だがそれが否応なく人殺しの道具になってしまうという点に、主人公は、またこの映画自体が、ほとんど拘泥することがない。主人公の友人が、俺たちが作るの人殺しの道具ではないと言ったところで、それは言い訳にしか聞こえない(実際、人殺しの道具なのだから)。
 映画の終盤、主人公は夢の中で、イタリア人設計家に君の十年はどうだったかと聞かれ、後半はズタズタでしたと答える(セリフは記憶によるので間違っているかもしれないが)。ならばそのズタズタの時間こそが描かれるべきである。そうでなければキャッチコピーの「生きねば」には何のリアリティも生じない。
 美し過ぎる夢には何かが欠けている。宮崎駿の作品がその魅力ゆえにある種の呪縛をその受容者に与えてしまうことと、それはパラレルである。宮崎駿は自分のファンが、いつかは自分の世界から抜け出し、大人になることを望んでいるだろう。だが、あまりに美しい夢から逃れるのは容易ではない。この作品が図らずも示してしまっているのは、そういうことだ。
 また特筆すべきは、この作品の主人公が成年の男性である点だ。これは宮崎駿の作品では珍しい。そして主人公の上司は、明らかに宮崎駿自身である。そして主人公の声優が『エヴァンゲリオン』の庵野監督であることを考えれば、この作品は宮崎駿の後に続く世代へのメッセージと受けとめうる。そこには当然、息子の宮崎吾郎も含まれているはずだ。そういう意味で、この作品の主人公は、宮崎駿の理想像(堀越二郎)であると共に理想の息子像でもありうる。だが、そこで示されるのは、誠実だが自分の仕事(というか好きなもの)以外には無頓着な、ある意味で理想の「おたく」像なのであることは、何か皮肉なものを感じさせる(確かに庵野監督は言うまでもなく「おたく」だが、彼がそのことに拘泥していることはエヴァンゲリオン劇場版の最終話[勿論、古い方]を見れば明らかだ)。
 私たちの国が他国の戦争に参加することを容認することを、他ならぬ私たち自身が選択しようとしてしまっているこの時期に、何故、宮崎駿はここまで美しい夢を見られるのか(この意味で、この映画が軍国主義映画だというどこかの国の批判は的外れである、そうでないことこそが問題なのだ)。戦争の時代を必死に生きた人々を描くこと自体は間違っていない。だが、主人公の知らないところで、主人公の飛行機は誰かを殺すだろう。そう遠くない時期、私たちの誰かが、私たちの知らないところで、他国の誰かを殺すだろう。おそらくは。
 
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿