2015/06/18

『絶歌』を読まないこと、あるいは少年Aのフェイクとしての「元少年A」

元酒鬼薔薇聖斗、「元少年A」の手記が出版され、話題を呼んでいる。筆者にも読んでみたいという欲望はあるが、読んでいない。単純に近隣の本屋から瞬く間に姿を消してしまったという事情もあるが、やはり被害者の御遺族が回収を要求しているという事実が大きい。そういう状況下で読むというのは、単純にあまり気持ちのいいことではない。読まない理由はそれだけである。とはいえアマゾンのレヴューやネットの書き込みが過剰なまでに増殖していることにはそれ自体、興味深いものがある。殺人者の手記が単純にエログロ的な想像力の対象になることは容易に想像できる。だがアマゾンのレヴューは大半が否定的な意見で占められている。別に全てに目を通したわけではないのだが、こういう事態そのものが社会の「元少年A」の物語への欲望を端的に示してしまっている。筆者も含め、おそらくはある時代、ある世代に思春期を送った人間にとっては、少年Aはどうしようもなく象徴的な存在なのであり、無視することがどうしてもできないのではないか。
本当は沈黙するのが最も良い。元少年Aの手記は完全に社会的に無視され、打ち捨てられることが被害者の御遺族にとっても、元少年Aにとっても最良のことではないかと思う。だが、そうはなっていない。ある種の人間にとって、元少年Aについて語るという欲望に抗することはとても困難なのである。そんな人間や社会をクズだと言って切り捨てるのは簡単だが、実際には巨額の印税が元少年Aには入るだろう。そういう事態に対して、単純に良いとか悪いとか言うのではないやり方で考えることはできないものだろうか。
色々考えてみた結果、「読まないで批評する」という方法は、この場合、意味を持ちえないだろうかと考えた。そんなものは批評でないと言われても、筆者は全く困らない(逆に読んでしまったら、その地点から引き返せなくなる)。別に筆者は批評家でありたいわけではないからだ。ただ「元少年A」について何か語っておかなければならないという切迫した気分に押されてこれを書いているだけだ。それはおそらく、元少年Aの自分語りの欲求とパラレルなものだろう。だから元少年Aに筆者の語りを否定される筋合いは無いはずである(被害者の御遺族は別だが)。
そして、結局「元少年A」はどうしようもなく凡庸な人間だ、これが筆者の結論である。こうした方向性の結論は既にロマン優光氏が述べているので、筆者が付け加えることはあまりない。敢えて付け加えるならば、高橋ツトム『地雷震』や落合尚之『罪と罰』がこうした方向性の結論をマンガという表現手段において提示していることだろうか。あるいは大塚英志と衣谷遊『リヴァイアサン』も、真向うから「少年A」を主題にしたキャラクターを描いている。そのキャラクター(かつて少年殺人者であったキャラクター)は、自分の子供が殺された時、その業を甘んじて受け入れる、「それが社会というものだ」として(記憶で書いているので、もしかしたら細部は違っているかもしれない)。
「何故、人間を殺してはいけないのか」。実際には答えは誰もが知っている。自分が、自分の愛する者たちが、殺されたくはないからである。みさき速『殺戮姫』がこの主題を扱っている。では自分が殺されても良い者、自分が愛する者などいない者は、殺人を犯す権利はあるのか。勿論、権利などはない。権利は外部から与えられるものでしかないからだ。自分や自分の愛する者を殺されてもいいという者は、もはや権利などという概念の外にいる。だから、快楽殺人者、あるいはシリアル・キラーたちは、ただただ自分の快楽のためだけに殺人を犯す。そしてそれが露見しては快楽殺人が(外部の権力によって)続けられないが故に、彼らは自分たちの犯罪をなるべく隠そうとするのである。
一方、元少年Aの殺人は、最初から過剰な自己承認欲求と結びついていた。ここに筆者は違和感を覚える。真正の快楽殺人者ならば、自分の殺人をひけらかそうなどとはしないのではないか。故に、幾ら「元少年A」が殺人に性衝動をおぼえたとしても、それは結局、思春期的、あまりに思春期的な、つまり性衝動の捌け口が確定されないという状況での「事故」だったのではないか、と思えてしまう(その意味で「元少年A」には心から同情する、同情が善意から来るものでは必ずしも限らないにしても)。勿論、「元少年A」にとっての真実においては、性衝動と殺人は切り離せないものだったのだろう。では何故、今更、手記という名の自分語りを発表せざるをえないのか。そうしないと生きていくことができないのか。それは要するに「元少年A」が徹頭徹尾フェイクだからではないか、と考える。
つまり、「元少年A」は「少年A」のフェイクであり、「少年A」は酒鬼薔薇聖斗のフェイクである。そして、酒鬼薔薇聖斗は、ネット上で本名とされている東慎一郎のフェイクである。実名報道され、ネットで素顔(だが誰の素顔だろう)を晒されたことによって少年Aには実体が無くなってしまった。あるいはそもそも「透明な存在」として酒鬼薔薇聖斗は現れたのではなかったか。自分がそうであるところのはずであるものから外れてしまった存在としてのフェイク(ロックバンド「凛と時雨」に拠るならば「テレキャスターの真実」あるいは「感覚UFO」)、それに彼は名前を与え、それに実体を与えるために殺人を犯した。だが、おそらく高橋ツトムの『地雷震』のエピソードがよく示しているように、マスメディアに拡散した「酒鬼薔薇」は逆にフェイクを増殖させるという結果しか生まなかった。だからこそ「元少年A」は「本当の私」を探し求めざるをえなくなるのである。だが、おそらくこの社会に生きるほとんどの人間が知っているように、「本当の私」など取り換え可能なものでしかない。「本当の私」は「私」というフェイクを生きることしかできない。
「本当の私」など、どこにも存在しない。思春期という「地獄の一季節」(高山文彦)は時に「本当の自分」を求めるよう仕向けてくるが、実際にはそんなものはどこにも存在しない。だが「私」の固有性(殺人を犯しながら射精してしまう固有性)も幻想のものとはどうしても思えない。だから結局、人間はその固有性とフェイクとの「間」を生きるしかない。というよりも敢えてそのように生きるべきではないか、そこにこそ(人を殺さない)倫理があるのではないかというのが筆者の考えである。たとえば、『ジギー・スターダスト』のデヴィッド・ボウイは、「ジギー」というフェイクとしての自分を、生身の身体をもって生き切った。「ロックンロール・スイサイド」をその度ごとに歌い切り、なおかつ本当にスイサイドしなかったことにボウイの功績がある。だから「元少年A」は、やはり匿名性の下に隠れるべきではない。上記したように自らの固有性とフェイク性との「間」を生きることに人間としての倫理があるとするならば、「元少年A」は、いや「元少年A」でも別にいいのだが、何らかの「固有名詞」の下に生きるべきなのではないか。つまり、暴力的なことではあるが、「元少年A」なら「元少年A」としてパブリックな場に出てくるべきではないかということである。勿論、様々な要因がそれを留めることだろう。だが被害者の遺族がそれを止めるなら別として、「元少年A」は公人として手記を出版する以上、それは自分自身の救済という意味でも避けられないのではないか。勿論、ある種のスターとして扱われることは、一方で絶対に避けなければならないのだが。これは微妙な問題である。
三島由紀夫は、フェイクとしての筋を通して自害した。村上春樹はフェイクとしての筋を通して、あの人を魅了してやまない、だが何の内容もない物語を、物語機械として紡いでいる(『アンダーグラウンド』をどう評価するかにもよるが、フェイクとしての物語がある局面では人を救うことは否定できない)。だから、「元少年A」は、自分がフェイクであることを自覚し、そのフェイクと自分自身が生きる現実との「間」を、誠実に生きるべきではないだろうか。これがある意味で暴論であることはわかっているが、やはり筆者は、「元少年A」という名で本を出す殺人者を、単なるフェイクとしか思えない、つまり、自分でやったことを自分自身の名において受け止める覚悟のない人間としか思えない。逆に言えば、その覚悟を持ちさえすれば、彼は救われるのではないか。つまり「元少年A」の殺人動機は、極めて思春期的なものであり(だからこそ普遍性を持ちえてしまう点が厄介だが)、その根本には自己承認の欲求がある。言い換えれば、「元少年A」はまさに「中二病」をこじらせているだけで、フェイクという意味では、他の同世代の大人たちと何一つ変わる部分はない。アマゾンの過剰なレヴューを見る限り、(筆者を含めて)「中二病」を患っている人々はとても、とても多いのであり、その過剰な思春期的欲望の捌け口を「元少年A」にぶつけているに過ぎない。
要するに、言いたいことは次のようなことだ。筆者自身「中二病」であることを自覚しつつ、「元少年A」は固有名において、何かを語るべきであるということ、残念ながら、それ以外に、「元少年A」の承認欲求は満たされることはない、つまり、救われることはないということである。筆者も結局は凡庸な結論にしか至れない。つまりはそれだけ「元少年A」の磁場が凡庸だということだ。
最後に笑い話を。『課長バカ一代』という漫画がある。その一話目だったか忘れたが、主人公が課長に昇進するかもしれないという場面がある。だが実際に主人公に与えられる役職は「課長補佐代理心得」とかそんなものなのである。「ホサ?」「俺はメキシコ人じゃない」というオチがつく。「元少年A」という肩書にどうしても感じてしまうのは、こういったどうしようもない悲しい笑いだ。だから筆者は被害者とその御遺族に同情すると同時に、「元少年A」にもやはり同情を感じてしまう。「酒鬼薔薇?」俺はただの殺人鬼じゃない、もっとすごいものだ、そう考えた途端、誰もが凡庸な殺人者になる。連合赤軍を、オウム真理教を思い出してみればいい。死は勿論、忌避すべきものだが、同時に救いようもないほど凡庸なものである。だって誰もが平等に死を迎えるのだから。だから被害者をいくら愛していたからといって、「元少年A」のやったことは、所詮凡庸な想像力の範疇に留まるものでしかない。だが逆説的ではあるが、それを認めることこそ、凡庸な人間の仲間入りを果たすことこそが、「元少年A」の救いになるのではないだろうか。

御遺族からクレーム等あれば即刻この記事は削除致します。

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